昭和44年04月08日 朝の御理解



 御理解 第34節
 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」

 この御理解第34節。只今拝読させて頂きました、もうこの通りこのままで御座いますから、この御理解の内容を色々分析して頂くと言うよりも、ここに御座います様に神の一言は千両の金にも変えられん、有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程しの神徳があると、仰せられるので御座いますから。その神の一言今日は皆さん殆どんが御本部参拝の、方が多御座いますし、お疲れになっておりますから。
 一言私が申しますからその一言をね、本当に頂いて帰れば車にも舟にも積めぬ、神徳を受けて下さる事が出来るんですから、そこん所をひとつ頂いて行きたいと思います。今度の本部参拝を頂きましてから、皆さんは久留米の控え所に皆な入られます。私しはあの古川先生の所に親子三人あちらにおかげを頂いたんですけど、あちらの豊美の婿になります、一雄って言いますが、その方が言うんです。そのお父さん僕に取っては、もうかけがいのない一人の親ですから体を大事にして下さいと。
 こう私に。お父さん戦死して亡くなっておられますから、なる程お父さんといやあ、私し一人だから大事にして下さい、私しがその糖尿病であると言う事を、この前ここに見えた時に聞いていたもんですから、先日あの尾道ね、尾道の「みちてる会」こりゃ合楽と前後して、神愛会時代に出けておる信者ばっかりの集いで御座いますが、教師の資格を持たずに沢山の人が助かる。
 御大祭と言えば一万人ぐらい集まる、むこう方の問題ぐらいじゃないぐらいにそのご比礼を頂いておられる。六十二歳か三歳とか言っておられましたが、矢張り糖尿病でそのコロッと亡くなられた。私はその事を頂いておりましたらね、あのしだれ桜ですね、大きなしだれ桜があの帰る途中にもありましたね、あれよかもっともっと大きなしだれ桜をイッパイ頂くんですよ。なる程桜の花の咲く様なあの華やかなおかげを受けられたんですけどね、そのしだれ桜ですよね段々しだれて来ると言うのです。
 でその又話しを聞かせて頂いておりましたらですね、あの娘さんかお孫さんが娘さんがおられましてね、学院で出て教師の資格を取られておられたそうですけれども、もう矢張り亡くなられたと言うと同時にですね、信者ががた落ちに落ちたとこう言う事なんです。ですから私しは思うんです、もう本当にあの枯れ木も山の賑わいから、おかげおかげを集まって来る信者を、私しあの欲しいとは思いません。
 もう本当に合楽で信心を頂いておったと、例えそんなら私が亡くなっても銘々の方達それぞれおかげが受けられる信心をね、頂いて貰いたいと言う事です。それにはもう私しが明けても暮れても説いております、お互いがね本気で信心を頂き本気でお徳を受けるおかげを頂かして貰わんなら、今日御理解を皆さんに聞いて頂こうと思いましたら、この34節を頂くんですよ。いくら十年も二十年も参り続けておりますと言うてもですよ。ここへ参っても神の言う通りにする者がないと。
 神の言う事は道に落としてしまい勝手にして神を恨む様な者があると。だからねここで本気でお徳を受ける道をですね。体得しとかなければねいけない、神様の一言って言うのは、そのままがご神徳であり、ですからなる程千両の金現金では買えない物、有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程のおかげがあると仰る。神徳があるとそれにはですね、心の内を改まる事が第一なりとこう言うとられます。
 神に一心とは迷いの無い事ぞと、勿論神に一心あちらにも参りこちらに参りよると言う事ではなくて一心におかげが受けられんから迷う、おかげが受けられるからお参りをすると言った様な、迷い信心ではなくてです一心と定めて、しかも心の内を改める事が第一なりと34節にあります様にです。私し共がお話しを頂いて御教えを頂いて、何を頂いて帰るかと言うと、自分自身の在り方と言うものがです、こう新たな展開を見る為にも新たな私しが生まれなければ、改まりが大事だと。
 そこで私しここ迄を34節の事としてです、今度私が御本部で頂きました事を一言聞いて頂くからね、それを1つ本気で頂いて頂けばです、船にも車にも積めぬ程の神徳がある事を、言わば教祖様直伝ですから聞いて頂きたい、是はね御祈念中に私しある方の事をお願い致しました。所がそのある方の事と言うのは、どうぞ皆さんが是は誰さんと云う事とは思わずに、私し自身の事と思うて下さらなければいけません。こりゃ御本部参拝さして頂いた者だけじゃありません。
 ここに御神縁頂いておる総ての人がその気になって下さらなければなりません。あのその方の事をお願いしておりましたらですね、あの太鼓のバチと言うのが太鼓のバチね、こう叩くやつですよあれを頂くんですよ一本、こう太鼓をまさに叩こうとこうしておる所を頂くんです。あのバチのお知らせは大きなお気づけと言う事やろ、お道の信心にはバチと言うものはない、もう私がこの頃無信心になったからバチかぶったと言う様な事をよく言うものがあるけれども。
 この神様はねバチを与えるひまがあるならおかげをやるわいと、仰るぐらいな神様ですから、バチはないけれどもお気づけはあると言う事ですから。そのお気づけを頂き続けに頂いているんですよお互いが、それを知らん、何か所々にですね、何か痛い思いをするとハッお気づけ頂いたっと言いよるけども、合楽におかげを頂いとるこりゃ私しを含めてです、皆がずぅっとお気づけを頂きよるとですよ実を言うたら、その証拠におかげが受けられんじゃないか、こりゃもう皆がおかげの頂きあのお気づけも頂き続けに。
 ご神縁を頂くと言う事はそりゃ大変な事なんだ。ただ合楽にこうしてご神縁を頂かれたと言う事はですね。実を言うたらもう大変な事なんですよ。神様の願いが其処に成就した訳ですからね、ある意味合いに置いて、親と子とが言わばこうやってあの相対した訳です、ですからその氏子におかげやらなければおかん、又おかげを受けてくれよと言う神様の切なるその願いがです、まあ日々の御理解と言う事になりましょうけれども。
 その御理解は道で落としてしまい、教えは神の言う事は道で落としてしもうて、自分勝手な事をするからおかげにならん、それでもおかげを受けておる様であっても、お気づけを頂き続けおかげは頂き続け頂きよるけども、又はお気づけも頂き続けてもある事を知らなきゃいけん、もうどの人一人一人ん事言うてもですね、おかげは頂きよるです。けれども又皆んながお気づけの頂き続けにお気づけを頂きよると言うですね、あの自覚に立ちませんと私し今日言う事が分らん。
 そしたらね其の方が改まったと言う所を頂いた言葉で、ここにそうでて参ります様にね。心の内を改まる事が第一なりとこう言う第一そこでですよ私し共がです、改まったと言う事になるったらですそのあのバチをね、もう真さにこう太鼓に当たろうとしておったら太鼓が消えてね。次ぎのご心眼にそれが調度こう松明を握っておる形になったんですよ。松明と言やこう道を照らすもんです。いわゆる明るくなるもんです、もう私しは何かハッとするようなものを感じましてね。
 はあもうこりゃここで本気で一番改まらにゃいけんぞと、本気で改まらなきゃいけんぞと、そこで本気で言うちゃでけんよと言わっしゃる一言はもう眠かろばってんが、本気でね本気であ炊くしが改まると言う事になればです、もうまさに太鼓に当たろうとしているそのバチが、外れてそのバチでなくてね、あのそれが松明になるそれが光りになる、その光りが徳なんですそれが力になるんです。
 それが例えばです、例えば私しが亡くなっても、お互いがおかげが受けて行けれる事になるのです。其の事をですね一心に心に頂き定めさして頂いてです、本気で心の内を改まる事が第一なりと仰るからですね、心の内を改まらないけません、今の様な心掛けじゃいかん、今の様な心得じゃいかん、いいやそればってんおかげは頂きよります、皆なおかげ頂きよりますよ。
 けれども今日私しが言う、お気づけを頂き続けに頂いておるんですよお互いが、そりゃどう言う事かと言うと、心の内をいっちょ改めんかと言うておられる事に対して、言わば耳を塞いでおる訳でもなかろうけれども、改まりよらんと言う事。ひとつここにですね、私共が二人見る様にと言う事を申しますが、本当に二人見る様な改まりをさして貰う、心の内形のこつじゃない心の内です、心の内が改まって来ると自ずと形の上の事は改まって来るです。
 今日其の事、心の内を改まる事が第一なり、しかも私しが御本部で今日今度頂いて、頂いた事が其の事で御座いましたがです、そして只今ならここに御教え頂こうと思うたら、34節の只今の所を頂きますから、ここへ何十年参って来てもです、神の言う事は道に落としてしもうたら、それはおかげは参って来よるからおかげは頂こうけど、そのおかげはもうそれこそ、もう淡雪のようなもんです。
 おるもんがおらん事なったらピタッと止まる様なおかげですそれは、それよりか自分の信心によってです、自分の信心を支えるものは、私自身が改まって徳を受けておかなければならないと言う事。今日の34節をもう一遍皆さんが眠り半分で頂いとりましたから、もう一辺読ませて頂いてです、そして其の中にある所謂心の内を改める事が第一であると言う事をです、私しは今度の御本部参拝で頂いて参りましたからです、それがお気づけお気づけから言わば光りになるおかげを頂いて参りましたから。
 皆さんに今日は聞いて頂たんです。そこから、おかげおかげではなくてね、信心の徳を受けさして貰うだけではない、本当に自分自身もね楽になろうと心の内を改めたら、妙な根性がなくなる、それが段々育って行きゃいよいよ有難い事になって来る、その心の内を改まる事が第一なり、もうそれはどげん日参り夜参りし続けてですね、おかげを受けてもです、それを道に落としてしもうたんではおかげにならん。
 本気で二人見る様なね、私し共にならせて頂く事を、ひとつ今度の御本部参拝を境にね、どうでも頂きたいと私しは心にその事掛けさせて頂き、今度の御本部参拝の、神の一言としてのですねその一言を、お徳にして行くおかげを受けたいと言う事を、念願して参りました。それは誰の事じゃない彼の事じゃないお互い全部が、合楽におかげ頂いている全部の人がその気にならせて頂いて、おかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。